鉄腕アトム 常識破りの手法

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 手塚治虫の人気キャラクターが、ブラウン管の中で動き回る。昭和38年1月1日、フジテレビで放送が始まった日本初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」は、多くの子供たちの心をわしづかみにした。動くアトムの誕生は、50年にわたって独自の進化を遂げ、今や「クール・ジャパン」の代表格となった日本のテレビアニメの幕開けだった。(三品貴志)

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 ◆常識破りの手法

 「『アトム』はアニメーションではなく、アニメです」

 手塚は虫プロダクションのスタッフの前でそんな持論を語った。劇場用アニメが「まんが映画」と呼ばれていた時代だ。「アニメーションをただ略しただけでは?」。スタッフの一人で、その後「タッチ」や映画「銀河鉄道の夜」などを監督した杉井ギサブローさん(72)は、手塚の真意が分からなかったという。

 東映動画(現・東映アニメーション)を経て虫プロ設立に参加した杉井さんは、幼少期にディズニーの「バンビ」を見てアニメ制作を志した。手塚は大のディズニーファン。「すごい作品を作るはず」という期待とは裏腹に、手塚は常識破りの手法を次々と採用した。セル画の枚数を減らすため、背景や動画を使い回したり、口や足といった体の一部だけを動かしたり…。手塚が「アトム」で目指したのは、米国でも試行されていた「リミテッド・アニメーション」の省略と合理化だった。

 ◆新旧交差の現場

 「一番はじめのころは、30分を7人くらいで作っていた。東映動画では200人ほどで描いていた時代。驚異的なシステムだった」

 セル画の多い「フルアニメーション」を経験してきた杉井さんは「紙芝居じゃないか」と困惑した。しかし、完成した1話を見て感想は一変する。「物語性を前面に出せば、動かなくても面白い。ショックだった」

 最高視聴率は40%超。おもちゃや文具といった関連商品が次々と発売され、他社も相次いでテレビアニメに参入するきっかけとなった。「手塚先生は『アトム』を“発明”し、日本に『アニメ』という産業を作り上げてしまった」と杉井さんは振り返る。

 「手塚先生の本性は漫画家でもアニメ制作者でもなく、物語作家。物語を伝えることに大きな興味があったからこそ、思いついた手法でしょう」。「機動戦士ガンダム」シリーズの生みの親、富野由悠季(よしゆき)さん(71)はそう語る。

 富野さんも昭和39~41年、アトムの演出などを手がけた一人だ。外部プロに作画を注文する作業も担当した。外注先には、日本初のフルセル画アニメ「くもとちゅうりっぷ」を手がけ、「日本のアニメーションの父」と呼ばれる政岡憲三といった大御所もいた。

 「大アニメーターに向かって、手塚先生がアトムの描き方を講義する。僕はその橋渡し役ですから、ある意味ひどい目にあった。しかも、できあがってきたものは極めてクラシックで、リミテッドの方法と根本的に違う」と、当時の困惑を懐かしそうに語る。

 実写志望だった富野さんは「アトム」の簡略表現に違和感も覚えていた。「外注で『古くていい仕事』を見ることができたのは大きかった。『物語がしっかりしていれば動かなくてもいい』と思う一方で、同じ漫画絵を動かすにしても、これだけ幅があると知った」

 独立してアニメーターとして活躍したり、制作会社を作った虫プロ出身者は多い。新旧文化と技術が交差する「アトム」の現場は、創造的な“学舎”でもあった。

 ◆再び常識突破へ

 日本動画協会によると、年間に放送・公開されるアニメは、テレビと映画合わせて200作以上、関連商品を含む市場規模は1兆3千億円以上。「アトム」から半世紀、日本は世界有数のアニメ大国となった。

 ただ、富野さんは「人々がテレビアニメという媒体が抱える問題を疑わなくなった。蛸壺(たこつぼ)にはまってしまっている」と苦言を呈し、「物語をいかに作るかで勝負しないと」と訴える。前出の杉井さんは、デジタル表現の進化やネットの普及に触れ、「ほかのメディアと同様にアニメも変わらざるを得ない。手塚先生が自由な発想で時代とシンクロしたように、また、新しい挑戦ができる」と話す。

 より時代に即した「伝える」方法を探して、常識に挑む。そんな手塚のDNAは、新しい時代にも求められている。


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